Local Stories and Daily Life from Nagoya
一正堂書店・小島孝夫さん ー 本屋のあとに残るもの

終わるものもある。
続いていくものもある。
店を閉めてから一年。
店内には、まだ少し本の香りが残っていた。
紙が年月を重ねた、
少し乾いた匂い。
床には、
片付けの途中の段ボールが
いくつか置かれている。
2025年に約90年の歴史を閉じた
一正堂書店。
この夏、
建物もまた、
一つの役割を終えようとしていた。


1934年に鶴舞で創業し、
戦後、大曽根へ移った一正堂書店。
本を売る場所であり、
家族が暮らす場所でもあった建物。
祖父の代から店を受け継ぎ、
本屋とともに歩んできた
小島孝夫さん。
その言葉を通して、
家族のこと。
町のこと。
そして、
一正堂書店で過ごした日々を見つめます。
3歳から、この建物が家になった

「これがおじいちゃんと、
おばあちゃんです。」
小島さんはそう言って、
一枚の写真を見せてくれた。
一正堂書店は、
祖父が鶴舞で始めた本屋だった。
戦後、おばあさんが
大曽根交差点で
焼け残っていた一軒の家を見つけ、
この町へ移ってきたという。
その家でしばらく店を続け、
小島さんが3歳くらいの頃、
数軒隣に現在の建物を建てた。


一階が本屋。
二階は若葉文化教室。
書道や空手など、
子どもから大人までが通う
地域の習い事の場所だった。
階段は今も
そのまま残っている。
何人もの人たちが
上り下りした手すりは、
長い年月をかけて
少し艶を帯びていたように感じる。
今は静かなその場所にも、
かつては子どもたちの声や、
大人たちの笑い声が
響いていたのだろう。
そして三階が住まいだった。
「正直、小さい頃のことは
そんなに覚えてないんですけどね。」
そう言って、
小島さんは少し笑う。
本がある。
店がある。
毎朝シャッターを開ける音。
本棚を整える音。
お客さんとの短いやり取り。
小島さんにとって、
それはずっと
そこにある景色だった。
「もっと写真あるんだけど、少しずつ整理してるから、
店にはそんなに残ってないかな。」
そう言いながら、
小島さんは一枚ずつ
写真を手に取る。


店先で撮った家族写真。
床を張り替えた時の店内。
この建物には、
本だけではなく、
家族の時間も積み重なっていた。
本屋という仕事

本屋の子どもだったことを、
特別だと思ったことはなかった。
「ただ、漫画くれって、よく言われましたよ。」
そう言って笑う。
「ジャンプが誰よりも先に手元にあるんですよ。」
それが子どもの頃の、
ちょっとした自慢だった。
そう笑う小島さんに、
「本屋だから、本が好きだったんですか?」
と聞くと、少し考えて首を振った。
「好きは好きですけどね。」
「でも、店に立つと
そんなこと言ってられないんですよ。」
毎日届く雑誌。
どんな本を仕入れるのか。
どんな本なら、
この町で手に取ってもらえるのか。
売れなければ、
返品しないといけない。
限られた棚の中で、
何を並べるのか。
それを毎日のように
考えていた。
「この注文で大丈夫かなとか。」
「結局、商売ですからね。」
若い頃は、お父さんやお母さんと
一緒に店に立った。
まだ本がよく売れていた時代だった。
けれど、お母さんが亡くなってからは、
自分で判断することが増えていく。

「晩年は、本当にこの本は
売れるのかなって。」
そう考えながら
棚をつくることも
少なくなかったという。
「本屋へ行かなくても、本は買える時代ですし。」
少し間を置いて続ける。
「本屋も、いろんな形に
変わってきましたよね。」
一冊の本を並べること。
その一冊を選ぶこと。
本屋という仕事は、
昔よりずっと
難しくなっていた。
時代と一緒に変わっていったもの

「本当に人が多かったですよ。」
そう話す小島さんの表情からは、
当時の景色が自然と浮かんでくる。
大曽根交差点。
アーケードが続いていた
大曽根商店街。
そして、
すずらん通り商店街。
学校帰りの子どもたち。
駅へ向かう人。
買い物をする人。
町にはいつも、
人の流れがあった。
一階では本を選ぶ人がいて、
二階の若葉文化教室へ向かう
子どもたちが階段を上っていく。
一正堂書店は、
そんな日常の途中にあった。
「活気がありましたね。」
その一言には、
当時の町の空気が
そのまま残っていた。
今も大曽根商店街は続いている。
けれど、町を覆っていたアーケードはなくなり、
すずらん通り商店街も、
その名前を街灯に残すほどになった。

町の景色が変われば、
人の流れも変わる。
「近くの大きな本屋さんが
閉まった時があって。」
少し苦笑いを浮かべる。
「正直、少しはお客さんが
流れてくるのかなと思ったんですよ。」
でも、そんなことはなかった。
時代が変わっていることは、
もちろん分かっていた。
それでも、どこかで淡い期待はあった。
けれど、
人の暮らしは、
思っていた以上の速さで変わっていた。
店を閉めてから始まった時間

店を閉めてから一年。
少しずつ整理を続けてきた。
本棚の奥。
積み重ねた資料の間。
本と本の隙間。
営業していた頃には
気にも留めなかった場所から、
いろいろなものが出てくる。
古い雑誌。
レシート。
写真。
整理を進める中で、昔聞いていた話と
結びつくことも少なくなかった。
「ああ、おばあちゃんが話していたのは
この雑誌のことだったのか。」
曖昧だった記憶が、
少しずつ輪郭を持ちはじめる。

営業していた頃は、
毎日が仕事だった。
立ち止まって
昔を振り返る余裕なんて、
ほとんどなかった。
だからこそ、
店を閉めてから
流れ始めた時間がある。
閉店を知らせると、
町の人たちが
次々と声をかけてくれた。
「ガキの頃、よく来てたよ。」
「ここで漫画を買ってた。」
それぞれが、自分の一正堂書店を話し始める。
「親父さん元気?」
何気ないその一言にも、
この店と長い時間を
過ごしてきたことが、
自然と滲んでいた。
営業していた頃には
聞くことのなかった思い出話。
その一つひとつが、
小島さん自身の記憶とも重なっていく。
「店の思い出って、案外、お客さんの方が
たくさん持ってるんですよね。」
建物を手放す日

「この建物に来たのは
僕が3歳くらいなんです。」
そう話す小島さん。
「今は、うちの子が4歳と2歳。」
その言葉を口にすると、
少しだけ目元をぬぐった。
自分も、この本屋で育った。
本棚の間を歩き回り、
働く父や母、
祖父母の姿を見ながら
大きくなった。
それが、小島さんにとっての当たり前だった。
そして今。
店を閉めてから一年。
片付けの合間には、
子どもたちが店へやって来る。
本棚が並んでいた場所を走り回り、
床に座って絵を描く。

その姿を見ていると、
何十年も前の自分と、
どこか重なる瞬間がある。
この夏、
一正堂書店の建物は
引き渡される。
その後、
この場所には
新しいマンションが建つ予定だという。
一正堂書店という建物は、
大曽根の町の景色から姿を消す。


けれど、
本屋として過ごした時間。
家族が暮らした時間。
町の人たちが持ち帰った思い出。
それまでなくなるわけではない。
この場所では、
また新しい暮らしが始まる。
大曽根という町もまた、少しずつ景色を変えながら、
誰かの日常を重ねていく。
小島 孝夫(こじま たかお)
一正堂書店 店主。祖父が1934年に創業した一正堂書店を受け継ぎ、父とともに家族で店を営む。2025年、約90年の歴史に幕を下ろした。