名古屋の街を、そっと記録する。

Local Stories and Daily Life from Nagoya

Kotonoha

名古屋の帽子工房「森安」・森安忠義さん ー “生きた帽子”とともに続いてきた時間

“生きた帽子”じゃないと。
死んだ帽子は売れないからね。

「もう親指は
曲がったままなんだよ」

そう言って見せてくれた手は、
厚く、しっかりとしていた。

長い年月、
この仕事と向き合ってきたことが、
その手から伝わってくる。

1950年創業の帽子工房
有限会社 森安。

戦後まもない時代から、
名古屋で帽子づくりを
続けてきた。

「これがあのときの帽子」

「これはこの依頼の資料」

会長が迷いなく取り出していく
一つひとつから、
丁寧に積み重ねてきた
時間が見えてくる。


Kotonohaのロゴ

言葉をすくい取り、
手渡していく──

Kotonohaでは、名古屋に息づく
人の声や温度を通して、
街の輪郭を静かに描いていきます。

今回の舞台は、名古屋市熱田区。

六番町駅と日比野駅のあいだ、
静かな通りにある老舗の帽子工房。

この工房を守ってきたのは、
森安忠義会長、84歳。

もとは商社勤めだったが、
結婚をきっかけに
帽子づくりの世界へ飛び込んだ。

大量生産が
当たり前になった今も、
細かな要望に応え、
手で形を整え、
一つひとつの帽子に
手間をかけ続けている。

会長の言葉を通して、
この工房に流れてきた時間を
見つめていく。


縁に導かれて、帽子づくりの道へ


満州・大連で生まれ、
戦後の混乱のなか
日本へ引き揚げた森安会長。

長野の実家を経て名古屋へ。
その後もしばらくは、
各地を移りながら暮らしていた。

本格的に働き始めたのは、
大阪にいた頃だった。

父親の仕事の関係で、
電話配線工事を手伝っていた。

その後、東京へ移り、
繊維関係のメーカー商社に勤める。

毛糸の元を扱う営業として、
全国を回る日々だった。

名古屋エリアの担当となり、
仕事先として訪れたのが、
帽子制作会社
「土方栄一商店」。

後に奥様となる
倶子(ともこ)さんの実家だ。

結婚して数年は
東京で暮らしていたが、
36歳の頃、
帽子工房を営む
倶子さんの家族から
声がかかる。

「やってくれないかって
言われてね。ご縁だから
やろうと思ったんだよ」

営業の現場から、手仕事の世界へ。
人生の予定にはなかった転身だった。

「奥さんはびっくりしてたけどね」

あっけらかんと笑った。

迷いがなかったわけではない。

それでも会長は、
その縁に背中を押されるように
帽子づくりの道へ
入っていった。


水ぶくれから始まった帽子づくり


当然ながら、
最初は簡単ではなかった。

蒸気を当てながら、
木型に沿って
少しずつ帽子の形を整えていく
「手蒸し」という技法。

繊維を傷めないよう、
生地の状態を見ながら、
手で少しずつなじませていく。

プレス機のように
一気に成形する方法に比べると、
工程は格段に多い。

途中でやり直すこともある。

決して効率の良い方法ではないが、
そのぶん細かな要望にも応えられる。

森安が長く守り続けてきたのは、
そうした手間のかかる仕事だった。

慣れない頃は、手のひらに
いくつも水ぶくれをつくりながら
作業を続けた。

5枚仕上げるだけで
精一杯だった。

「見よう見まねで、
一生懸命やってきたよ。
親父さんに気に入られないと
いけなかったしね」

そう言って、少し笑った。

失敗しても、
次の工程は待ってくれない。

そうやって身体で覚えた仕事が、
少しずつ手になじんでいった。

「一番大変だったのはね、
40歳くらいの頃だね」

喉頭がんで、
半年ほど入院したという。

「女房も大変だったんじゃないかな」

視線を落とし、少し間を置いた。

それでも仕事から
離れることはなかった。

当時、帽子は
まだ日常の中に
しっかりと根付いていた。

「昔は熱田にも
帽子屋がたくさんあったよ。
帽子組合には名古屋で
80軒以上入ってたんじゃないかな」

当時の組合帳を取り出し、
静かに眺めた。

けれど時代が進むにつれ、
熱田の街からも
帽子屋は少しずつ
姿を消していった。

そんな流れのなかで、
若い世代に再び帽子を広めた
存在として会長が挙げたのが、
1997年創業の
日本の帽子ブランド・
CA4LAだった。

「若い人に、
帽子をファッションとして
広げたよね」

森安から卸した帽子が
モデルに着用され、
パリコレの舞台へ
届いたこともあった。

芸能人が雑誌で
かぶることも増えていった。


「できない」と言わない工房


いま、帽子の多くは
海外工場などで
大量生産されている。

安く、早く、
数多くつくられる時代だ。

そんななかで森安に届くのは、
細かなこだわりが詰まった依頼だった。

「あと3センチ高くしてほしい、とか、
この素材を使ってほしいとかね」

そうした細かな調整は、
大量生産の現場では難しい。

けれど、
手仕事の工房だからこそ
応えられる。

木型や素材に合わせて
形を整え、ミリ単位で調整する。

少しでも気になる
汚れやズレがあれば、
やり直す。

会長は、そんな帽子を
「生きた帽子」と表現する。

手を抜かず、
最後まで愛情を込めて
仕上げる帽子のことだ。

「生きた帽子じゃないと。
死んだ帽子は売れないからね」

そう言って、穏やかに笑う。

「“できないって言わない”って
よく言われるよ。」

「何でもやっちゃうから
儲からないんだよね。
手間ばっかりかかってさ」

それでも仕上がりを
曲げなかったからこそ、
森安にしかできない仕事が
残ってきた。

冗談めかした言葉の奥に、
その姿勢が
静かににじんでいた。


「職人じゃない」と言う理由


森安は、
昔ながらの技術を
守るだけではない。

コロナ禍では
大きな打撃も受けた。

外出の機会が減り、
帽子そのものの需要が落ち込み、
注文も減った。

それでも会長は、
自社商品をネットで販売したり、
外へ出て直接販売したりと、
新しい動きを始めていく。

守っていくために、
変わることを選んだ。

その姿を見ていると、
いわゆる“職人”のイメージとは
少し違うようにも感じられる。

そう伝えると、
会長は少し笑って
こう返した。

「多分、職人じゃないんだよね」

有松絞りの職人との
つながりから
藍染めの帽子をつくる。

一宮の繊維工場との出会いから、
特殊な素材を使った帽子を形にする。

芸大の先生との関係を
きっかけに、
学生たちのデザインを
帽子として実現する取り組みも、
長く続いている。

「人たらしって、よく言われるよ」

人とのつながりが、
新しい仕事を連れてくる。

そうした関わりの積み重ねが、
森安の仕事を広げてきた。


受け継がれていく、手仕事


現在、工房には
7人が関わっている。

娘夫婦や、
その友人たちも加わり、
ミシンや検品、梱包などを
担っている。

かたちは変わりながらも、
仕事は少しずつ
次の世代へ引き継がれている。

「帽子をかぶると、
気分が変わる。
おしゃれを楽しめるでしょう」

会長はポケットから
小さく折りたたんだ帽子を取り出し、
慣れた手つきで
さっとかぶってみせた。

その動きは自然で、
長く続いてきた時間を
感じさせる。

「“楽しくなければ
帽子じゃない”って、
CA4LAでも言ってるんだよね」

穏やかな口調で続ける。

「楽しいと、
心もワクワクするし」

棚には、
これまで手がけてきた帽子や
資料が、
今も静かに残されている。

「これまでつくってきた帽子を集めてね、
いつかミュージアムをやりたいんだよ」

そう言って、
楽しそうに笑った。

この場所で積み重ねられてきた
手仕事は、
これからも、
誰かの手に渡っていく。

手間をかけてつくられた帽子が、
どこかで静かに
選ばれていく。

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Natsuki

名古屋在住20年以上。お酒とコーヒー、そして笑いのある日常を大切にしている。子育てをきっかけに、長く暮らしてきた名古屋の別の表情が見えるように。人の価値観に触れ、世界が広がる瞬間が好き。Tewatashiプロジェクトでは、名古屋の何気ない瞬間を拾い上げ、人と場所のつながりを表現していきたい。

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